どんなにこだわりの出汁を引き、手打ちの麺を打っても、客に「ただのそば」と思われたら、そのこだわりは“無”に等しい。 残酷だが、これがビジネスの、いや、人間心理の構造だ。
先日、ある気づきがあった。 それは「丁寧な仕事」と「それが伝わること」の間には、巨大な断絶があるということだ。
多くの職人や現場の人間は、こう思いがちだ。
「いい仕事をしていれば、いつか誰かが気づいてくれる」
「わかってくれる人だけが、わかってくれればいい」
断言しよう。それは傲慢だ。
「食えばわかる」「食べてみればわかる」――。
もしあなたがそう嘯いているなら、それは職人の矜持ではなく、ただの驕りだ。
相手に「察する能力」を期待し、伝える努力を放棄しているに過ぎない。
受け取る側は、あなたのこだわりを察する義務などない。彼らはただ、その対価に見合う「価値」を正しく知りたがっているのだ。
クリーニング屋の話をしよう。
ある店がテレビでこう宣伝していた。 「当店では、衣類の素材に合わせて0.5度単位で洗浄温度を調整しています!」
視聴者は思う。
「すごい!あそこは特別な技術を持っているんだ」と。
だが、玄人から見ればどうだ。 そんなことはプロならどこでもやっている「当たり前」の工程かもしれない。
しかし、その「当たり前」を言語化し、外に向かって「特別なこと」として見せた瞬間、それは独自の「価値」に変わる。
言わなければ「ただの洗濯」、言えば「匠の技」。
この差を生むのは、腕の良し悪しではない。
「見せる構造」を持っているかどうかだ。
やっているのに、伝わっていない。
それは、やっていないのと同じ評価しか生まない。
「秘すれば花」という言葉があるが、ビジネスにおいてそれは通用しない。
手が込んでいるなら、その手数の多さを伝えよ。
温度管理をしているなら、その数値を叫べ。
背景が見えた瞬間、普段食べているそばの味が劇的に変わるように、我々の仕事も、背景を語ることで初めて「体験」へと昇華される。
採用も、集客も同じだ。 「わかってくれるはず」という甘えを捨てろ。
自分たちの「当たり前」を、来る返し繰り返し言語化し伝え、可視化するのだ。
それは自慢ではない。 相手に価値を正しく理解させるための、プロとしての「親切」であり「責任」だ。
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